東芝情報システム株式会社

心拍の"ゆらぎ"から脳の状態を読み解く─京都大学×東芝情報システムが挑んだ8年越しのカオス分析研究

2026年3月24日、京都大学と東芝情報システムの共同研究による論文が、Nature系の国際学術誌「Scientific Reports」に掲載されました。2018年から8年にわたり積み重ねてきたカオス分析の研究が、医学・ヘルスケア分野との接点を持つための大きな一歩となりました。

これまで本研究のように、心拍のゆらぎをカオスとして捉え、認知活動との関係を示すアプローチは、医学分野では十分に理解されてきませんでした。しかし本研究では、その関係性をデータとして示すことで、従来の分析では捉えにくかった「認知活動の影響」が心拍に現れる可能性を示しました。

一方で、その道のりは決して平坦ではありませんでした。「Nature」や「Science」への挑戦、不採録の連続、そして46件に及ぶ査読コメントへの対応。論文が掲載されるまでには、長い時間と試行錯誤が積み重なっています。

本記事では、カオス分析の技術的な意義から、この研究が簡単には認められなかった要因、論文掲載に至るまでのリアルなプロセス、そして今後の医療応用や社会実装の可能性について、京都大学の梅野教授と、東芝情報システムの奥富さん、真尾さんにお話を伺いました。
京都大学 梅野教授(左)
技術統括部 真尾 朋行(中央)
技術統括部 奥富 秀俊(右)

京都大学 梅野教授(左)
技術統括部 真尾 朋行(中央)
技術統括部 奥富 秀俊(右)

考えている状態”を心拍から捉えることを可能にしたカオス分析

ーまず、従来の心拍変動分析では、どのような点が限界だったのか教えてください。
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梅野教授:
従来の分析方法では、心拍の周期がどのくらい変動しているか、その変動が大きいか小さいか、どのような分布になっているかを見ることが中心でした。ただ、それだけでは、心拍が本当に“生き生きと揺らいでいる状態”そのものの本質には迫れていなかったと考えています。

奥富さん:
心拍間隔(RRI)は一定ではありません。つまり、周期的ではないものを見ているはずなので、本来は非周期的なものや、ランダムさを分析する視点が必要だったと思います。しかし従来の心拍変動分析では、統計分析や周波数分析が中心でした。そこにカオス分析を入れることで、これまで見えていなかったゆらぎの特徴を捉えられるのではないかと考えました。

ー認知課題の実験では、どのようなことを行いましたか?
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真尾さん:
被験者の方には、暗算と数独の2種類の認知課題を行ってもらいました。暗算では、簡単な計算の答えを手で書きながら繰り返します。ただ、手を動かす影響も考えられるため、考えている時間が長い数独の課題も加えました。

心拍データからカオス性を数値化すると、認知課題中にカオス性が上がることが分かりました。ポアンカレプロット(=データをカオス的な視点から可視化する方法)で見ても、変動する範囲自体は大きく変わらないものの、その範囲の中で複雑に変化していることが確認できました。

ーカオス分析を取り入れることで、何が新たに見えるようになりましたか?
真尾さん:
認知課題を課したとき、その影響が心拍のカオス性に表れていることがはっきり分かりました。比較のために身体的な課題も行いましたが、そちらではカオス性は逆に下がりました。従来の指標では見えにくかった脳活動との関連が、カオス性の指標では見えてきたのです。

自律神経分析からカオスへ──2013年から2020年までの研究の歩み

ー2013年当時、この研究はどのような目的でスタートしたのでしょうか。
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奥富さん:
きっかけは、東芝が持っていた胸に装着する心拍センサーです。その利活用を考える中で、自律神経分析をやろうという話になりました。当時は長距離バスの居眠り事故が続いていた時期でもあり、心拍から居眠りを検出できないかという目的で研究が始まりました。

ー2016年に、自律神経分析では限界があると判断した背景を教えてください。
奥富さん:
自律神経分析では、交感神経と副交感神経のどちらが優位か推定できます。しかし、その先にある「集中している」「眠い」といった具体的な状態の推定まではできなかったんですね。でも、私たちはさらにその先が欲しかった。そこで、従来の分析法とは独立したカオス分析を入れてみることにしました。

ー2018年にカオス分析を取り入れたきっかけについて教えてください。
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梅野教授:
心拍変動の解析にカオスを取り入れる研究は、当時ほとんどありませんでした。一方で、私たちはもともとカオスの研究をしていたので、「自分たちならできそうだ、何かしらの結果は出てくるだろう」と考えました。

奥富さん:
自律神経分析だけでは、生理状態の特定には届かない。そこで2018年に、心拍変動分析にカオス分析を加え、両方を使って生理状態を特定できないか試みることになりました。ただこの時点では、心拍と脳活動の関係が鮮明に表れるとは思っていませんでした。

ー京都大学との共同研究はどのように始まったのでしょうか?
真尾さん:
私は2015年ごろに研究へ合流し、カオス分析に関する学会発表を通じて梅野先生とお会いしました。その後、2018年に京都大学の博士課程に進学しました。同時に、東芝情報システムと京都大学の共同研究も正式にスタートし、私と奥富さん、梅野先生の3人体制で研究を進めることになりました。

奥富さん:
梅野先生とは2011年の学会で出会っており、以前からつながりがありました。真尾さんに博士の学位を取らせたいという思いもあり、先生に相談する中で、会社の留学制度も活用し、社会人学生として受け入れていただける流れができました。人のつながりに加え、制度面の後押しとタイミングが重なって、共同研究が前に進んだと思います。

2020年の「Nature」初投稿から6年──なぜこの研究は認められなかったのか

本研究は2020年の「Nature」への初投稿を皮切りに、「Science」や複数の学術誌で不採録を経験しました。最終的に6回目の投稿となった「Scientific Reports」で、4回の修正を経て2026年3月に掲載に至っています。

ー最初に「Nature」や「Science」へ挑戦された理由を教えてください。
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心臓の分析から脳の状態が分かるというのは、当時の常識ではあまり考えられていなかったことです。私たちは、そこに新しい発見がある可能性が高いと感じていました。

「Nature」や「Science」は世界最高峰の学術誌ですが、今回の研究成果にはそのレベルの学術誌に挑戦する価値があるのではないかと思ったんです。みんなで取り組んできたカオス研究の成果を、そうした場で発表できたら本当にうれしい。そういう思いもあり、この機会に挑戦しようと考えました。

ー2020年から2025年まで不採録が続いた要因はどこにあったと考えていますか?
梅野教授:
結果自体は良いものだと思っていました。ただ、その価値を説得力を持って伝える書き方が十分ではなかったのだと思います。データに誠実であろうとするあまり、アピールが少し弱くなっていたのかもしれません。

また、最初の投稿時は被験者数が18人で、人数が少ないという指摘もありました。そこで追加実験を行い、27人まで増やしました。人数を増やしても同じ傾向が出て、むしろ結果がよりはっきりしたことで、自信を持てるようになりましたね。

奥富さん:
医療や生体に関わる研究なので、誇張はできません。そのため、どうしても慎重な表現になっていた面はあります。
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梅野教授:
今振り返ると、まずは「新しい実験結果として何を発見したのか」を前面に出すべきでした。新しい仮説も魅力的だったのですが、発見と仮説のどちらが主軸なのかが分かりにくくなっていたのだと思います。

ー「Scientific Reports」の初回査読では、46件のコメントがあったと伺いました。どのように対応されたのでしょうか。
真尾さん:
5人の査読者から、合計46件のコメントがありました。複数の査読者が似た視点で指摘している項目もあり、大きく整理すると主な指摘は3つでした。

1つ目は、実験結果に対して主張を言いすぎている部分があること。2つ目は、この研究の新規性が十分に伝わっていないこと。3つ目は、最終的に実験結果の統計的な意味を示す訳ですが、統計結果の信頼性を説明するために、さらにもう1段の分析を要求されたことです。

最初の2つについては、論文の構成や文章表現を見直すことで対応し、統計結果の信頼性の説明については査読者の指摘を受け入れ、必要な分析を追加・修正しました。大きな変更点は主にその3点で、その他の細かな指摘箇所も一つひとつ対応していきました。

奥富さん:
真尾さんは淡々と説明していますが、実際は大変でした。査読者の指摘内容を理解するために論文を読み、一方で計算プログラムを作成しながら計算を繰り返し、修正案を作り、その後真尾さんと議論する。意見が合わないことも多かったので、これを短期間で実施することは本当に大変なことでした。

最終判断を梅野先生にお願いできなかった場合は、〆切までに論文を修正できなかった可能性があります。査読結果が返ってきたのが8月の頭で、そこから1カ月ほど、特に最後の3〜4週間はほとんど休みなく対応していました。

私はたまたま京都で会議があり、最初は2日で帰る予定だったんです。ところが、そのまま対応が続いて、結局3週間ほど京都に滞在することに。お盆休みもほとんど返上して、真尾さんたちと議論しながら修正を進めました。

ー論文の質を下げるという選択肢はなかったのでしょうか。
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真尾さん:
全くありませんでしたね。今回の実験結果は新しく、驚きのあるものだと思っていましたし、書き方を工夫すれば、必ずどこか良いところで評価してもらえるはずだと考えました。

あと、せっかくここまで取り組んできた研究を、妥協して終わらせるのは良くないとも思っていました。たとえば査読で、理論が間違っている、あるいは既に発表されている内容と同じだといった指摘があれば、研究の方向性を大きく見直す必要があったと思います。ただ、そうではなかったので、自分たちの研究の価値に対する考えは揺らぎませんでした。

ー諦めずに研究を続けた理由は何だったのでしょうか?
奥富さん:
私一人で進めていたら、どこかで妥協していた可能性はあったかもしれません。ただ、私自身もこれは新しい発見だという手応えがありましたし、真尾さんと梅野先生が「やる」と言うなら、ぜひ最後までやってほしいと思っていました。

もし二人が弱気になっていたら、会社側には「ここで区切りましょう」と説明していたかもしれません。でも、二人がやると言うなら、自分も一緒にやる。そういう気持ちでした。

カオス分析が医学分野とつながる一歩──分野を越えて評価された研究の意義

ー今回の論文掲載について、率直なお気持ちを教えてください。
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真尾さん:
やっとスタートラインに立てたという感覚があり、まずはホッとしています。

梅野教授:
まず、真尾さんが理論面を中心に取り組んできたことが、ようやく認められたという意味で、非常に良かったと思っています。確かに時間はかかりましたが、それでも頑張る価値のある研究だったと感じています。

ー「Scientific Reports」への掲載はどのような意味を持つと考えていますか?
梅野教授:
「Scientific Reports」に掲載されたことで、医学分野の研究者や医療機関に対して研究成果を説明し、議論を始めるための土台ができました。

奥富さん:
私たちは、カオス分析をうつ病などの臨床実験にもつなげていきたいと考えています。そのためには医学部の先生方との連携が必要です。今回の掲載は、次のステージに進むためのきっかけになると思います。

この研究はどこへ向かうのか──カオス分析の次の展開

ー現在の研究はどの段階にあり、今後、医学分野との連携はどのように進んでいくと思いますか?
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梅野教授:
今回の研究で、カオスという指標の重要性を示すことができました。ただ、これはまだ最初の第一歩です。今後さらに研究を重ね、本当にそうだと示していく必要があります。

一方で、国際誌に掲載されたことで、医師や医療機器メーカーの方々に「このような研究成果があります」と説明しやすくなりました。今後は東芝情報システムさんとも相談しながら、病気を未然に防ぐバイオマーカーや、スマートウォッチのような身近なデバイスで心拍変動を測る技術など、社会に還元する出口を探っていきたいと考えています。

奥富さん:
一般的なストレス評価は心拍数を見ることが多いですが、私たちは心拍間隔の変動を見ています。日々の心拍変動を継続的に測ることで、メンタルヘルスの変化や注意すべき兆候を早く捉えられる可能性があります。まだ実証は必要ですが、身近な方法で測れる点に大きな可能性を感じています。

ーカオス分析はどのような領域に広がっていく可能性がありますか?
梅野教授:
まずは生体データへの応用が考えられます。カオス分析は、データがどのような特徴を持っているかを捉える手法なので、異常検知にもつながる可能性があります。AIやデータ解析と組み合わせることで、特徴の見つけ方や識別の仕方もさらに発展していくのではないかと考えています。

真尾さん:
今回の成果は心拍のカオス分析ですが、カオスという概念自体は、自然現象や経済活動など、さまざまな分野に現れる普遍的な性質です。変動するデータであれば、何らかの形で応用できる可能性があるため、応用の幅はかなり広いと感じています。

企業でここまでの研究ができる理由──東芝情報システムという環境

ー企業としてこの研究を支え続けられた理由は何ですか?
奥富さん:
やはり、研究の価値を理解してくれる人がいたことが大きいです。企業の研究では、3年ほどで成果が見えなければ次のテーマへ移ることも少なくありません。しかし、この研究については、継続する意義を理解し、「やっていいよ」と言ってくれる人がいました。直接的な理由としては、それに尽きると思います。

また、私たちだけで会社にうまく説明できたかというと、難しい部分もありました。その点では、梅野先生からの助言も大きかったです。研究の価値を伝えながら、周囲の理解を得られたことが、長く続けられた理由だと思います。

ー京都大学との今回の共同研究には、どのような価値があると感じていますか?
奥富さん:
専門の先生と共同で研究できることは、非常に大きな価値があります。自分たちだけでは気づけない視点や、理論的な考え方を学ぶことができますし、研究を深めるうえでとても勉強になりますね。

ー研究を社会実装につなげるうえで、意識していることは何ですか?
真尾さん:
社会実装を考える際に意識しているのは、まず「解決すべき課題は何か」という点です。例えばストレスや疲労のように、多くの人が把握したいと思っているにもかかわらず、客観的な定量化が難しいものがあります。こういった計測しにくいものを定量的に評価できるようにすることは、社会的に重要な課題だと考えています。本研究も、そのような課題に対する一つのアプローチとして進めています。今後は医学部との連携を通じて、臨床現場で実際に求められていることや課題を把握しながら、研究成果を社会に役立つ形につなげていきたいと考えています。

奥富さん:
社会実装に向けては、信頼や信用を積み重ねることが大切です。そのためにも、研究成果を論文として発信し、多くの人に見てもらう必要があります。真摯にデータを取り、科学に誠実に向き合う姿勢が、最終的に信頼につながるのだと思います。

ー最後に、学生に向けてメッセージをお願いします。
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梅野教授:
学生の皆さんは、大学で学び、卒業したら社会に出るというように、大学と企業を別の世界だと考えるかもしれません。しかし、本当に価値のある課題は、大学にとっても企業にとっても重要なものです。今回の研究のように、大学と企業が一緒に取り組むことで、新たなブレイクスルーが生まれることがあります。
価値ある課題は、すぐに解けるものではありません。それでも諦めずに取り組めば、道を切り開ける可能性があります。ぜひ粘り強く挑戦してほしいです。

真尾さん:
社会人学生として大学に戻り、学生の皆さんと一緒に研究する中で、皆さんとても真面目で素直だと感じました。ただ、それだけでは少しもったいないとも思います。学生のうちは、必要以上に枠に収まろうとせず、自分の好きなことや興味のあることに、もっと自由に取り組んでほしいです。

奥富さん:
これからの日本には、技術で新しい価値を生み出せる人が必要だと思っています。その発想は、誰かに言われて出てくるものではなく、自分の中から生まれてくるものです。

何か思いついたら、まず試作してみる。プログラムを書いてみる。そうした時間や機会を、会社として若い人に与えていくことが大切だと考えています。やる気があり、実際に手を動かしてみたいという人がいれば、ぜひ支援していきたいです。


※記事内における内容、組織名などは2026年6月公開時のものです。
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